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■ 第15回   水野 義夫 ・・・・・・・・・・・・・   vol.33   2001年1月



新しい世紀の幕開けです。21世紀のネイル界の鍵を握る男・水野義夫氏の登場です。
幼少時代はガキ大将、「子供絵画コンク−ル」優勝で絵心ありを自覚、中学時代は生徒会長、高校ではラグビ−部へ、兵庫県代表で「花園出場」を果たした。そして名門同志社へ、365日の猛練習で念願の一軍入りしたが、靱帯損傷で涙の退部。しかしこれらで鍛えられたラガ−魂が、彼の人生で活きていくのである。

1979年、同志社を卒業後、貿易会社に入社。語学力を買われてサンフランシスコ支店に配属。日々アメリカ人のスタッフと共に、サンキスト・オレンジの輸出、日本食料品の輸入という業務を全うしていた。マンネリ感が漂い始めていたある日、ガ−ルフレンドの付き添いでネイルサロンに初めて行き、折れた爪が一瞬で蘇る技術に大感激。早速、ダウンタウンにある「マリネロ・ビュ−ティ・カレッジ」マニキュアリスト科の夜間部に入学。みるモノ、やること、すべてに感動で、このとき、自分の天職としてネイリストになる決意をした。1984年のことでした。

カリフォルニア州のマニキュアリスト・ライセンスを取得後、退社。ロスアンジェルスで一番有名だった「ネイルズ・ユニ−ク」に入社。白人客ばかりの大型店で、当然の指名制、お客を持たない彼はアシスタントに明け暮れたが、持ち前の根性でチャンスをつかみ、オ−ナ−から「ワンボ−ル・メソッド」技術を伝授され、当時メジャーのネイルショウ「ジャック・スパ−リング」コンテストに初出場してスカルプチュアで入賞を果たし、ジム・ジョ−ジ氏の推薦で「WINBA」世界大会の審査員にも任命され、晴れて帰国を決意した。(WINBAの大会には、以後11年間連続審査委員、1989年には、日本人初めての審査委員長=写真)

1986年帰国。神戸北野に開業。当時は、ネイルが一般的ではない上に、男性というハンディも加わり、来店客が9日間もゼロの日が続いたこともあったとか、LA帰りのトップ・ネイリストも前途多難な船出でした。石の上にも3年、そのころからやっとお客様も増え、支店を出し、10年目でやっと軌道に乗り、奥様を労いホット安心していたときに・・・。

あの「阪神大震災」に被災されてしまいました。「サロンはすべて全壊、床は割れたマニキュアで真っ赤状態」何とか営業再開まで一ヶ月、但し、街中が復旧してなく、お客様からペットボトルや食料の支援を頂き、再び、ガンバル決意をした。その間も、協会の重要な役職を果たし、普段通り会議に出席していた姿には、頭が下がる思いでした。

現在は順風満帆。スク−ル4校、サロン38店を運営している。ビジネス上の理念を聞いてみた。「スク−ルは、技術習得と実践的レッスンを中心として、年3回は10年来の親友トム・ホルコムを始め海外ア−チストによる新技術ゼミナールを実施しながら、良識あるネイリスト育成を目指している」

「サロンは、安心と進化した技術と心地よい接客をモット−に、お客様中心で判断する思考にした」さらに、「ネイルズ・ユニ−クとして、ネイリストに大きな夢を与え、サロンのお客様にも大きな感動を与え続けられたら良い」とのこと。
日本の技術は、「コンテストでは追い越し気味だが、新技術・新商品のアイディア等は、37万人のネイリストがいるアメリカから、まだまだ学ぶことがたくさんあります」

協会の運営については、「ネイルショウ・検定試験・コンテスト・セミナ−等が、定期的に実施されていることは、全世界に誇れます。今後は正確な情報発信基地として、国際的にアピールしていくと共に、全国津々浦々のネイリスト達にも、ベ−シック技術とフレッシュな技術を、公平、敏速に伝達できるよう関係者と力を合わせていきたい」と熱く語ってくれた。

座右の銘は、「身を沈めてこそ、浮かぶ瀬もあり、二歩進んで、一歩後退」。低迷が続く日本経済に於いて、ネイル産業をいかに健全的発展に導いていくか、それは水野義夫のファイティングスピリットにかかっていると云っても過言ではない。次期リ−ダ−として期待は大きい。

<2001年1月記 原文>


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