昔話。ビバリ−ヒルズの片隅に、日系人が経営している美容室「メナ−ジトア」という、若き日のユキさん(在LA)を始め、大勢の日本人の美容師がお世話になったサロンがある。そこに働いていたマニキュアリスト山崎充子サンを六本木「インタ−カット」で”アン山崎”の名で衝撃的にデビュ−させてから、日本のネイルの実質的幕開けとなった。後の「ネイルバンク」を含めて、アンの初期の生徒さん達には、現在活躍中の著名なネイリストがたくさんいるが、その中の1人が山崎比紗子さんです。
静岡県焼津市のご出身で、幼少の頃はバレリ−ナを目指し10年間も夢中になって習っていたが、お父さんの事業が倒産し、夢や進学を断念せざるを得なかった。一方で、高校時代から短編小説・エッセイを書くのが大好きで、ペンネ−ムで学校新聞や、雑誌に投稿していたそうです。何年か前に、単行本をお出しになるというので、書名を銘々して差しあげた。たしか「指先からの美学」よいタイトルだったと思う、そのあとも何冊か出版や、エッセイを書いており、その熱心さと文才が伺えます。
26才の時、急病にて生死をさまよい、病気を治療するために東洋医学に興味を持ち、学びながら「美と健康」についての勉強も始めたのが、美容産業入りのきっかけとなりました。
エステティックに惹かれ、東京「ソワンエステティック学園」大阪「タカラエステアカデミ−」に通学、更に、1977年初めてロスアンゼルスに行ったとき、街で見かけたネイル専門サロンにたいへん興味を持ち、その後、ネイルへの思いが強くなり、アン山崎に師事する一方、ロス郊外のビュ−ティ・スク−ルのスチュ−デントビザを取って「マニキュアリスト」「ペティキュアリスト」のディプロマを修得しました。以来語学力を活かして、年に2−3回は、アメリカ各州のネイル事情を知るために渡米するようになり。エステサロンは、スタッフに任せ、ネイルの世界にどっぷり浸かってしまいました。
ネイル・スク−ルをオ−プンさせたのは、今から16年前、第1期生は12名でした。現在は、6ヶ月160時間にて、週1日コ−スを4クラス開講しており、ネイルケア、爪の生理学、病理学に特に力をいれている。課外授業として、各クラス毎に老人ホ−ムの慰問に行っている。スク−ルのモット−は、「ネイルケアは、メンタルケア」「ネイリストは、セラピスト」そして、「最高の技術と心のサ−ビスで、お客様を満足させること」を受講生に訴えていました。
ネイルサロンは、現在7店舗。3月にオ−プンした新規店では、マニキュア・ペティキュアの他、フットマッサ−ジ・リラクゼ−ション・セラピ−を併設して、現代人のニ−ズに応える癒し系のサロンにした。モット−は、「昨日より今日。もっと、美しく・やさしく・お役に立つように」これからは、ネイルを含む「美と健康」のコンサルタントをしながら「心・技・体」の揃った本物のプロフェッショナル・ネイリストを養成して、ネイル業界の発展の為、尽力していきたい。とおっしゃっています。
協会の運営に対して、「公平」と「社会的認知」をあげておられた。協会はこれまで、基盤造りに夢中になってきたが、現在は分野別に規定の徹底と見直しが急ピッチで進められています。会員の誰もが望んでいることなので、西日本地区の女性リ−ダ−としての自覚と共に、協会の健全的発展の為に、今後も大いに知力を発揮して頂けることを期待しております。
新時代のネイリストヘの一言。「21世紀は’心の時代’世界中がハイテクとコンピュ−タ−と携帯電話の時代になっても、人間の心は優しさを求めています。ネイルビュ−ティの世界はマンツ−マンのハンドタッチ。まさにご縁のある人を癒し、優しさと思いやりを与えられる素晴らしい仕事です。すばらしいネイリストとは、まず自分自身が人を思いやる深い優しさを持っている人だと思います。医術だけでなく、人間としての魅力と心を磨き続けていただきたいと思います。」と、熱っぽく語ってくれました。更に、「ネイリストの社会的地位とレベルを正しく評価される為には、ネイリストそれぞれが、審美を追求し、心の豊かさを備え、マナ−や技術の向上に励んでいくことが、必要条件です」を強調されました。
「ネイリストは、ハイクオリティで有りたい」を、常に微笑みをたたえ、秘めたるバイタリティにて自ら演じてる姿には、敬服すると共に応援をし続けていきます。公私のバランス感覚を持って、ご自身のテ−マを全うされること切望しております。
<2001年4月記 原文>